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神と宗教と「一」

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神について考えると、宗教というものとは決して切り離して考えることはできない。「神」の辞書的な意味について。人知を越えてすぐれた、尊い存在、天地を支配する不思議な力を持つものとされていて、人間を超越した宗教的な存在であり、宗教的信仰の対象となっている。宗教の辞書的な意味は、神または何らかのすぐれて尊く神聖なものに関する信仰。また、その教えやそれに基づく行いとなっている。

 

 私の立場を先に書いておくと、無宗教であり、すべての神を信仰しているともいえる。すべてを信じているし、すべてを疑ってもいる。矛盾しているがこれは後で説明していく。そして宗教というのは神がつくったものではなく「人間」のつくったものである。世界的な規模で信仰されている宗教を「世界宗教」というが、現在では三つ定義されている。「キリスト教」「イスラーム教」「仏教」である。これらも全て人のつくったものである。何のために宗教は作られたのかというと「社会」や「弱者」のためといっていいかもしれない。

 

 宗教は二面性を持つと私は考える。一方は「支配」であり、他方は「救済」である。二面性と書いたが、螺旋のように複雑に絡まりあっているので面ではないかもしれない。まず、支配について。これは神を信仰する限りは、宗教の支配というものからは逃れられない。なぜなら信仰心というものがそうさせないからである。信仰心がある限りは、それを裏切ることは神に背く行為となるからである。そして、信仰心というものは利用されやすい。これは何も宗教だけに限ることではない。「騙される」などはすべて信じるということから生じるものである。それなら何も信じるな、信じることは悪なのかという人がいるかもしれないが「信じる」ということは善でも悪でもない。しかし、盲目的な信仰は人であるための「理性」というものさえ損なわせかねない。何より宗教というものは「権力」と「財」を同時に手に入れる簡単な方法でもある。そして、倫理観というものは目に見えないため、間違った指導者というものも存在し得る。宗教批判になりそうなので、これ以上書かないけど。

 

 私の入っているコミュニティで「なぜ神を信じないのか」と質問している人がいた。このコミュニティはサイケデリックのコミュニティなんだけど、海外のコミュニティだからこそ、そんな質問が出たのかもしれない。日本人は無宗教というか、無神論者が多いからそんな質問も出てこないだろう。ここでは死後体験や次元をこえた、いわゆるブレイクスルーしたことのある人が多く集まっている。死後体験というのは臨死体験というのともまた違く、最近少しだけ本を読んだのでその言葉を使ってみる。私の感覚だが、現実→夢→臨死→死後→ブレイクスルーのような感じ。見かけた答えとして、神というのは言葉からつくられているというものや、何がお前をそうさせたんだというのが多かった。まあ質問者が神を定義してない時点でこの質問にはだれも答えられないのだけれど。私は、みんなグレートスピリットの一部だよと返したけど反応はイマイチだった。このコミュニティの人たちは宗教の持つ「支配」というものに気付いているために多くの人は信じていないわけである。

 

 次に宗教の持つ「救済」という一面について。「信じる者は救われる」という言葉がある。これについては肯定派であるが、実際のところは肯定も否定もできない。信仰の対象によって、救われたかどうかということは証明も否定もしようがないからである。例えば、どこかの森で熊に遭遇したとしよう。あなたは走って逃げずにあなたの信仰する神または、それに類似する存在に祈った後に助かったとしよう。これは、あなたが神に祈ったからこそ助かったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 その他に「人としての生き方」や「礼節」を説き、正しい方向に導こうというものもある。これは東洋に多く、仏教や儒教道教などが挙げられるだろう。哲学や思想、倫理観に繋がるものもあり、私はこちらのほうが重要であると考える。宗教というのは心の支えにもなるが、時には理性を失わせる毒にもなる。まさに精神的なドラッグともいえるだろう。何にせよ使わなくて済むのならドラッグというものは使わないほうが良いと、私は思う。

 

  私は二元論の克服と超越こそが神に至り、神を理解する道であると考える。私が思い描き、定義する神とは「一」という概念そのものである。一は唯一であり無限である。鋼の錬金術師の中に「全は一、一は全」という言葉があるが、これも真理である。哲学者プラトンはこの一を「一なるもの」(ト・ヘン to hen)と定義した。哲学者プロティノスはこれを一者とした。それぞれ若干のニュアンスというかイメージは異なるがどれも大体同じものを指す。そして、プロティノスは一者への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオは一度体験したと書き残している。Wikiより。

 

 私はプロティノスのいう、エクスタシスという感覚・経験というものにはいくつか段階があると思う。私自身は完全なエクスタシスというものは二度経験したことがある。プロティノスはエクスタシスに至るのはごく稀に、少数としているが、私は「誰にでも」「いつでも」「どこでも」起こり得るものであると考える。私の指す「一」である「神」を、「普遍なるもの」と呼ぶことにする。なぜなら、普遍なるものはいつでも、どこにでも存在するものであるからである。普遍なるものを知覚する手段は人それぞれ、その人にあったものがあるだろうし一概にこれだというものは無い。瞑想が手軽な方法といえるが、すぐに知覚できるという保証はできないし、私自身瞑想によって深いところまでは知覚したことがないのでわからない。この「知覚」というのは、私の他の記事で書いた「Nibra」にも関連するともいえる。エクスタシスを再度経験するか、日本から出た時にでもそれについては書きたい。

 

 普遍なるものに近づくためにはいくつかの考え方が必要だと思う。まず、「一」という概念の拡張は絶対に必要だと思うので書いておく。一というのは1+1のような数字的な意味もあるがそれ以上のものでもある。1+1は2という数になるが「2」という数字も、一つの概念でもあるわけです。つまり2は一でもあると。そして、1と2というのは数字という一つ概念で括れるわけです。数字という観点から見ると、1と2というものはどちらも等しく同じなわけですです。そして1は2でもあるし、2ではないという矛盾を含む答えになるわけです。例として挙げるのなら、1も2も存在しない。あるのは数字だけだという感覚がエクスタシスのイメージに近いかな。数字だけじゃなくて、すべての概念を包括しなければいけないのだけれど。

 

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「私達が聞くものはすべて誰かの見解であり事実ではない。私達が見るものはすべて考え方に基づくものであり、真実ではない。」マルクス・アウレリウス

 

 アウレリウスはローマの皇帝であり、五賢帝の一人でもある。生まれたのが、西暦121年となっている。今は西暦2016年なので1900年近く前の話である。少し宗教の話に戻るが、この西暦というのはキリストの生まれた日から始まっているわけである。そして、この西暦(ユリウス暦)をつくったのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)である。カエサルが死んだのが紀元前44年、西暦が始まったのが紀元前45年、そしてキリスト教が始まったのが紀元後1世紀前半とされている。この100年がワンピースの空白の100年であるとも考えられる。まあヨーロッパ人は0という概念を持っていなかったとかいわれているけど果たしてどうだろうか。仮にそこに本当に100年があり、その100年を知っているものがすべて殺されていたらどうだろうか。歴史というものは簡単に変えられるわけである。キリスト教が宗教と認められたのは4世紀のことなので、それまでは争いは絶えなかった。今の時代でも絶えてないけど。私の求めるものは「知ること」であるが、仮にローマ時代に生きていて「権力」や「財」というものを欲していたのなら宗教をつくったことであろう。まあキリスト教というものも人間のつくったものである。そして、キリストも最初は人間だったわけである。本当に存在したのなら。

 

 普遍なるものに近づくための考え方として、上の画像を使って説明していくと最低三つの視点を理解できなければいけないわけです。まず真ん中に置いてある柱を「4だ。」とする立場である。「違う3だ。」とする立場。そして、この画像を上から見ている視点である。重要なのは上から見るという「客観的視点」である。この視点こそがホルスの眼であり、悟りや第三の眼といわれるようなものの入り口であると思う。第三の眼は「目に見えない世界を知覚するスピリチュアルビジョン」「意識と内なる世界を広げるゲート」「より高次の意識状態とつながる為のスイッチ」とされている。客観的な視点から見ると柱が「3でもあり、4でもある」という矛盾を含む答えになるだろう。それぞれが自分の視点や考え方しか信じない場合、客観的立場の者が気付きやすくさせることはできても教えることは不可能である。

 それぞれが動けば3でもあるし、4でもあるということがわかるという人がいるかもしれない。しかし盲目な人は動かないし、動いたとしても二人が同時に「同じ視点」に立たなければ同じ答えにはならないわけである。そして真実が見えるのは高い視点だけである。この場合は2次元を見ているので、3次元という視点がすべてを見れる高い視点ということになる。私のブログでは再三書いている通り、この世は多次元構造である。そして、3次元というのは下から数えたほうが早いという具合だ。まさに幼年期である。

 最低三つの視点としたのは視点は作ろうと思えばいくらでもつくれるからだ。上にあった画像を見ている時なら、画像を見ている自分というものを上から見ることができるわけです。さらにその上から見ている自分を考えてみるなど。これは多次元思考法と勝手に名前付けてるけど、なかなかおもしろいです。自分の思考や意識というものを客観的に見ることができるから。例えば、これを読んでいる「あなた」と「私」というものは時間と空間を隔てて話しているともある意味ではいえるわけです。私の意識が介在していますから。私の伝えたいことが分かってくれているといいですが、あなたがこれを読んでいるということは何となくわかっているのかもしれません。

 ここで「一」は唯一であり無限を内包しているということについて。わたしも「一」であり、あなたも「一」です。これをイメージするのは簡単だと思います。

 そして、わたしでもあり、あなたでもあるという「一」も存在するわけです。

これは同じ視点に立つことであり、この存在を視覚や知覚するのは難しい。しかし、イメージすることはできるかもしれません。

 

この一文を「今」書いている「わたし」と「今」読んでいる「あなた」は「今」存在する「わたしでもあり、あなた」でもあるわけです。そして、「ここ」という同じ場所にいるわけです。

 

 まあこれは主体と客体を超えた状態じゃないと難しいかもしれませんが感覚の話なので、なんとなく。上にある画像を見直して、「わたし」という存在は「あなた」が画像を見ている間どこにいるのか考えればわかるかもしれません。もちろん私の「意識」の話です。

 

 私でもあり、あなたでもある存在があるのなら、私でもあり、あなたでもあり、他のだれかでもある存在もいるわけです。これを突き詰めていったら唯一のものになる。それがプロティノスのいう「一者」である。そして、この唯一というものは概念そのものや物質的なものにも当てはめることができ、それはいつでもどこにでも存在するので「普遍なるもの」としているわけです。新プラトン主義は私自身もっと深く知る必要があるのでまたこれについても書きたい。

 

 「一」は無限であるというのは一というのは分けることもできるからである。1という数字なら0.5という一のように。概念としては色と形、匂い、手触りなどで無限の一ともなりえる。

 次元というものは下の次元を内包しているわけである。よく言うのが断面であると。1次元というのは数直線である。「一」があるが、これを横から見ると点つまり0次元になることがわかるだろうか。0次元というのは無限である。小ささに終わりはない。2次元であれば断面は1次元になるわけだ。4次元の断面が3次元であると。しかし、私は他の次元に行ったことある(5次元)。その感覚から言うと、5次元の断面は3次元であるという気がする。または今私たちがいるのが4次元というのもあるのかもしれない。5次元に行くと、全能感や宇宙との一体感。それに待ってたぜ〜みたいな歓迎のような感覚がすごい。

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 エクスタシスと死後体験や悟り、ブレイクスルー、目覚め、超越というものは呼び方が異なるだけで、通ずるものがあると私は考える。言語の恣意性である。まあこの世の全ては関連しているから当たり前だけれど。

 

 人間とはやはり、それぞれが、真理をすべてを忘れた神なのではないかと思う。あなたも私も。もしくは自ら忘れたか。全能や全知を捨てるという神の遊びのような。

 

神と宗教については続きます。

読んでくれてありがとうございました。