宗教の変遷とエジプトと死後の世界とベルセルク
http://plus-ultra.hatenablog.com/entry/2016/02/24/023250
https://en.wikipedia.org/wiki/Baetylus
http://www.livius.org/articles/religion/baetyl/
このベチルという石は聖なる石とされ、隕石であると。この隕石(Betyl)は神の家を意味し、神々のシンボルとして崇められていたと。例として、古代フェニキア人の都市であるビブロスとティルスに伝承があったと。この二つの都市について調べてみたら、戦争や「十字軍」などによって破壊され支配されたようである。この十字軍というのはフリーメーソンとも関係が深い。そしてビブロスとティノスの港町の中では、隕石と同様に太陽神エル・ガバルが崇拝されていたと。そしてその石は太陽の鷹により守護されていたと書いてある。記述として共通して言われているのは、黒い石であると。
ベチルの関しては古代ギリシャ神話にも記述があるり、その他には創世記にもこの石に関して書かれているとある。創世記というのはキリスト教やイスラーム教の原典である。そして、イスラーム教と黒い石について調べてみると、この黒い石というのはサウジアラビアのメッカに実在すると。この写真の箱の中。
しかし、この石は一度盗まれていて20年後に不思議な経緯により返却されたとある。何より残念なのはこの石が損傷し、いくつかに割れて破片となってしまったということである。まあ今でも存在するのは事実だけど、本物かどうかは知らない。
卵でも石でも隕石でもなくて、落ちてきたものはUFOだったというのはどうだろうか。中から神が出てきて、UFOの破片が祀られてると。まあ、それも普遍なるものの一部なんだけれど。書いてて飽きてきたから私的な意見をまとめると「支配」というのはエジプトの時代から続いているものだと。
結構な人が神でもいいし、宇宙人の存在を意識すればなんかおもしろいことが起こると思う。パラダイムシフトである。もしかしたら本当に神も宇宙人なのかもしれない。雌ライオンの頭の宇宙人がいてもおかしくないし。まあ結局は私も神であなたも神でみんな神で、同時に宇宙でもあるんだけど。
最後に、最近見かけたおもしろい話について。古代文明の壁画などには、謎のバッグを持ったやつが描かれているという話。おもしろいくらいに色んな国の古代の壁画に描かれてたから笑えた。大麻が入ってるとか人間が死ぬ時に出る脳内麻薬が入ってるとか色々言われてておもしろい。何が入ってるんだろう。
終わり。読んでくれてありがとうございました。ベルセルクは本当におすすめです。
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神と宗教と「一」
神について考えると、宗教というものとは決して切り離して考えることはできない。「神」の辞書的な意味について。人知を越えてすぐれた、尊い存在、天地を支配する不思議な力を持つものとされていて、人間を超越した宗教的な存在であり、宗教的信仰の対象となっている。宗教の辞書的な意味は、神または何らかのすぐれて尊く神聖なものに関する信仰。また、その教えやそれに基づく行いとなっている。
私の立場を先に書いておくと、無宗教であり、すべての神を信仰しているともいえる。すべてを信じているし、すべてを疑ってもいる。矛盾しているがこれは後で説明していく。そして宗教というのは神がつくったものではなく「人間」のつくったものである。世界的な規模で信仰されている宗教を「世界宗教」というが、現在では三つ定義されている。「キリスト教」「イスラーム教」「仏教」である。これらも全て人のつくったものである。何のために宗教は作られたのかというと「社会」や「弱者」のためといっていいかもしれない。
宗教は二面性を持つと私は考える。一方は「支配」であり、他方は「救済」である。二面性と書いたが、螺旋のように複雑に絡まりあっているので面ではないかもしれない。まず、支配について。これは神を信仰する限りは、宗教の支配というものからは逃れられない。なぜなら信仰心というものがそうさせないからである。信仰心がある限りは、それを裏切ることは神に背く行為となるからである。そして、信仰心というものは利用されやすい。これは何も宗教だけに限ることではない。「騙される」などはすべて信じるということから生じるものである。それなら何も信じるな、信じることは悪なのかという人がいるかもしれないが「信じる」ということは善でも悪でもない。しかし、盲目的な信仰は人であるための「理性」というものさえ損なわせかねない。何より宗教というものは「権力」と「財」を同時に手に入れる簡単な方法でもある。そして、倫理観というものは目に見えないため、間違った指導者というものも存在し得る。宗教批判になりそうなので、これ以上書かないけど。
私の入っているコミュニティで「なぜ神を信じないのか」と質問している人がいた。このコミュニティはサイケデリックのコミュニティなんだけど、海外のコミュニティだからこそ、そんな質問が出たのかもしれない。日本人は無宗教というか、無神論者が多いからそんな質問も出てこないだろう。ここでは死後体験や次元をこえた、いわゆるブレイクスルーしたことのある人が多く集まっている。死後体験というのは臨死体験というのともまた違く、最近少しだけ本を読んだのでその言葉を使ってみる。私の感覚だが、現実→夢→臨死→死後→ブレイクスルーのような感じ。見かけた答えとして、神というのは言葉からつくられているというものや、何がお前をそうさせたんだというのが多かった。まあ質問者が神を定義してない時点でこの質問にはだれも答えられないのだけれど。私は、みんなグレートスピリットの一部だよと返したけど反応はイマイチだった。このコミュニティの人たちは宗教の持つ「支配」というものに気付いているために多くの人は信じていないわけである。
次に宗教の持つ「救済」という一面について。「信じる者は救われる」という言葉がある。これについては肯定派であるが、実際のところは肯定も否定もできない。信仰の対象によって、救われたかどうかということは証明も否定もしようがないからである。例えば、どこかの森で熊に遭遇したとしよう。あなたは走って逃げずにあなたの信仰する神または、それに類似する存在に祈った後に助かったとしよう。これは、あなたが神に祈ったからこそ助かったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
その他に「人としての生き方」や「礼節」を説き、正しい方向に導こうというものもある。これは東洋に多く、仏教や儒教、道教などが挙げられるだろう。哲学や思想、倫理観に繋がるものもあり、私はこちらのほうが重要であると考える。宗教というのは心の支えにもなるが、時には理性を失わせる毒にもなる。まさに精神的なドラッグともいえるだろう。何にせよ使わなくて済むのならドラッグというものは使わないほうが良いと、私は思う。
私は二元論の克服と超越こそが神に至り、神を理解する道であると考える。私が思い描き、定義する神とは「一」という概念そのものである。一は唯一であり無限である。鋼の錬金術師の中に「全は一、一は全」という言葉があるが、これも真理である。哲学者プラトンはこの一を「一なるもの」(ト・ヘン to hen)と定義した。哲学者プロティノスはこれを一者とした。それぞれ若干のニュアンスというかイメージは異なるがどれも大体同じものを指す。そして、プロティノスは一者への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオは一度体験したと書き残している。Wikiより。
私はプロティノスのいう、エクスタシスという感覚・経験というものにはいくつか段階があると思う。私自身は完全なエクスタシスというものは二度経験したことがある。プロティノスはエクスタシスに至るのはごく稀に、少数としているが、私は「誰にでも」「いつでも」「どこでも」起こり得るものであると考える。私の指す「一」である「神」を、「普遍なるもの」と呼ぶことにする。なぜなら、普遍なるものはいつでも、どこにでも存在するものであるからである。普遍なるものを知覚する手段は人それぞれ、その人にあったものがあるだろうし一概にこれだというものは無い。瞑想が手軽な方法といえるが、すぐに知覚できるという保証はできないし、私自身瞑想によって深いところまでは知覚したことがないのでわからない。この「知覚」というのは、私の他の記事で書いた「Nibra」にも関連するともいえる。エクスタシスを再度経験するか、日本から出た時にでもそれについては書きたい。
普遍なるものに近づくためにはいくつかの考え方が必要だと思う。まず、「一」という概念の拡張は絶対に必要だと思うので書いておく。一というのは1+1のような数字的な意味もあるがそれ以上のものでもある。1+1は2という数になるが「2」という数字も、一つの概念でもあるわけです。つまり2は一でもあると。そして、1と2というのは数字という一つ概念で括れるわけです。数字という観点から見ると、1と2というものはどちらも等しく同じなわけですです。そして1は2でもあるし、2ではないという矛盾を含む答えになるわけです。例として挙げるのなら、1も2も存在しない。あるのは数字だけだという感覚がエクスタシスのイメージに近いかな。数字だけじゃなくて、すべての概念を包括しなければいけないのだけれど。
「私達が聞くものはすべて誰かの見解であり事実ではない。私達が見るものはすべて考え方に基づくものであり、真実ではない。」マルクス・アウレリウス
アウレリウスはローマの皇帝であり、五賢帝の一人でもある。生まれたのが、西暦121年となっている。今は西暦2016年なので1900年近く前の話である。少し宗教の話に戻るが、この西暦というのはキリストの生まれた日から始まっているわけである。そして、この西暦(ユリウス暦)をつくったのはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)である。カエサルが死んだのが紀元前44年、西暦が始まったのが紀元前45年、そしてキリスト教が始まったのが紀元後1世紀前半とされている。この100年がワンピースの空白の100年であるとも考えられる。まあヨーロッパ人は0という概念を持っていなかったとかいわれているけど果たしてどうだろうか。仮にそこに本当に100年があり、その100年を知っているものがすべて殺されていたらどうだろうか。歴史というものは簡単に変えられるわけである。キリスト教が宗教と認められたのは4世紀のことなので、それまでは争いは絶えなかった。今の時代でも絶えてないけど。私の求めるものは「知ること」であるが、仮にローマ時代に生きていて「権力」や「財」というものを欲していたのなら宗教をつくったことであろう。まあキリスト教というものも人間のつくったものである。そして、キリストも最初は人間だったわけである。本当に存在したのなら。
普遍なるものに近づくための考え方として、上の画像を使って説明していくと最低三つの視点を理解できなければいけないわけです。まず真ん中に置いてある柱を「4だ。」とする立場である。「違う3だ。」とする立場。そして、この画像を上から見ている視点である。重要なのは上から見るという「客観的視点」である。この視点こそがホルスの眼であり、悟りや第三の眼といわれるようなものの入り口であると思う。第三の眼は「目に見えない世界を知覚するスピリチュアルビジョン」「意識と内なる世界を広げるゲート」「より高次の意識状態とつながる為のスイッチ」とされている。客観的な視点から見ると柱が「3でもあり、4でもある」という矛盾を含む答えになるだろう。それぞれが自分の視点や考え方しか信じない場合、客観的立場の者が気付きやすくさせることはできても教えることは不可能である。
それぞれが動けば3でもあるし、4でもあるということがわかるという人がいるかもしれない。しかし盲目な人は動かないし、動いたとしても二人が同時に「同じ視点」に立たなければ同じ答えにはならないわけである。そして真実が見えるのは高い視点だけである。この場合は2次元を見ているので、3次元という視点がすべてを見れる高い視点ということになる。私のブログでは再三書いている通り、この世は多次元構造である。そして、3次元というのは下から数えたほうが早いという具合だ。まさに幼年期である。
最低三つの視点としたのは視点は作ろうと思えばいくらでもつくれるからだ。上にあった画像を見ている時なら、画像を見ている自分というものを上から見ることができるわけです。さらにその上から見ている自分を考えてみるなど。これは多次元思考法と勝手に名前付けてるけど、なかなかおもしろいです。自分の思考や意識というものを客観的に見ることができるから。例えば、これを読んでいる「あなた」と「私」というものは時間と空間を隔てて話しているともある意味ではいえるわけです。私の意識が介在していますから。私の伝えたいことが分かってくれているといいですが、あなたがこれを読んでいるということは何となくわかっているのかもしれません。
ここで「一」は唯一であり無限を内包しているということについて。わたしも「一」であり、あなたも「一」です。これをイメージするのは簡単だと思います。
そして、わたしでもあり、あなたでもあるという「一」も存在するわけです。
これは同じ視点に立つことであり、この存在を視覚や知覚するのは難しい。しかし、イメージすることはできるかもしれません。
この一文を「今」書いている「わたし」と「今」読んでいる「あなた」は「今」存在する「わたしでもあり、あなた」でもあるわけです。そして、「ここ」という同じ場所にいるわけです。
まあこれは主体と客体を超えた状態じゃないと難しいかもしれませんが感覚の話なので、なんとなく。上にある画像を見直して、「わたし」という存在は「あなた」が画像を見ている間どこにいるのか考えればわかるかもしれません。もちろん私の「意識」の話です。
私でもあり、あなたでもある存在があるのなら、私でもあり、あなたでもあり、他のだれかでもある存在もいるわけです。これを突き詰めていったら唯一のものになる。それがプロティノスのいう「一者」である。そして、この唯一というものは概念そのものや物質的なものにも当てはめることができ、それはいつでもどこにでも存在するので「普遍なるもの」としているわけです。新プラトン主義は私自身もっと深く知る必要があるのでまたこれについても書きたい。
「一」は無限であるというのは一というのは分けることもできるからである。1という数字なら0.5という一のように。概念としては色と形、匂い、手触りなどで無限の一ともなりえる。
次元というものは下の次元を内包しているわけである。よく言うのが断面であると。1次元というのは数直線である。「一」があるが、これを横から見ると点つまり0次元になることがわかるだろうか。0次元というのは無限である。小ささに終わりはない。2次元であれば断面は1次元になるわけだ。4次元の断面が3次元であると。しかし、私は他の次元に行ったことある(5次元)。その感覚から言うと、5次元の断面は3次元であるという気がする。または今私たちがいるのが4次元というのもあるのかもしれない。5次元に行くと、全能感や宇宙との一体感。それに待ってたぜ〜みたいな歓迎のような感覚がすごい。
エクスタシスと死後体験や悟り、ブレイクスルー、目覚め、超越というものは呼び方が異なるだけで、通ずるものがあると私は考える。言語の恣意性である。まあこの世の全ては関連しているから当たり前だけれど。
人間とはやはり、それぞれが、真理をすべてを忘れた神なのではないかと思う。あなたも私も。もしくは自ら忘れたか。全能や全知を捨てるという神の遊びのような。
神と宗教については続きます。
読んでくれてありがとうございました。
自由とは何かと大麻少々
自分なりに適当に書いていく。
自由とは何か。これは人によって頭の中で思い描く自由というものは当然異なるだろうし、それが何かということを定義することはとても難しい。私にとっての自由でも、あなたにとって不自由ならばそれは本当の意味での自由ではないわけである。しかし、双方にとっての自由というものもどこかには存在するわけである。また、万人にとっての自由というものもあるだろう。「あなたが自由だと、私は自由ではない」という人もいるかもしれない。そういった人は自我が強すぎるため、本当の意味での自由を見つけることはできないであろう。私は真実を知ることこそが、自由へと繋がる道だと考える。
辞書的な意味について。辞書というものも完璧ではないし、言葉や言語というものは欠陥だらけだと私はいつも思う。例えば「鳥」というものについて考えた時に、私の意味する鳥というものと、あなたが頭の中で思い描く鳥というものは同じかもしれないし、全く違うかもしれない。私は「今」ある鳥をイメージしたわけです。ヒントは黄色。まあそれはどうでもいいけど。人の持つイメージの違いというものは他の記事でも少し書いた。
http://plus-ultra.hatenablog.com/entry/2015/12/04/015630
ソシュールについて調べればシニフィエなどについては理解できると思う。
「鳥」と一言で言っても、大きさ、翼の形、鳴き声など様々である。自由について書いているので、あなたのイメージした鳥というものは大空を飛んでいるかもしれない。その場合は「空を飛ぶ鳥」としても良いかもしれない。
しかし、空を飛ぶ鳥のイメージ、つまりシニフィエというものは共通ではないわけである。どちらの方向に飛んで行っているのか、高さはどのくらいかなど。「高さ1㍍をこちらに向かって飛ぶ鳥」としたときには飛び立とうとしているのか降りようとしているのかなどこれには終わりはないわけである。しかしどれも空を飛ぶ鳥でもあり、鳥でもあるわけだ。精神世界は、分かったと思えばそれは分かったのだろうし、理解できたと思えばそれは理解できたのでしょう。よく完全に悟ったや、アセンション完了とかいう人がいるが、私にはとてもそうは思えない。なぜならそれが意味することは、いつもどこにでもいて、いつもどこにもいない存在となると考えるからです。終わったと思えば終わりだろうし、それは終わってないかもしれない。矛盾を含む思考というものもこれからは必要になってくると思う。二律背反を理解するということである。
言葉の話に戻ると、これは言語間でも起こるものである。例えば「海」というものは、英語では「Sea」や「Ocean」と表現される。シニフィエが二つあることになる。日本人にも辞書的な二つの違いは分かるかもしれない。私も分かったつもりでいる。しかし、そのSeaとOceanというもので連想されるものが果たして英語圏の人々と同じものなのかはわからない。ここからわかることは、世界というものはイメージから創造されていて、言語というものはそれを分かりやすく分けるための一つの方法に過ぎないということです。そして、これは何も「鳥」や「海」などの物質的なものだけでなく、言葉などの概念そのものにも言えるわけです。例えば私のよく使う「Cheers」という単語があります。辞書的な意味だとcheerの三人称単数現在。cheerの複数形。かっさい, 歓呼とされています。しかし「ありがとう」や「乾杯」という意味もあるわけです。実際に使うのはそっちのほうが多い。しかしどれもcheersなわけです。
結局何が言いたかったのかというと、言葉というものはそれほど重要ではなくイメージや伝えたいという心のほうが大切だということです。意味が分からない人にはこの意味は分からないだろう。しかし、何となくわかったという人は、その「なんとなく」というものが私の伝えたかったものに一番近いということ。言葉は重要ではないというのは、言葉というものを不必要だといっているわけではありません。私の意思を「今」伝えているのも言葉であるし、言葉というものはイメージの助けになることもありますから。まあ言葉の必要性や美しさを重視するなら純文学でも読むことをお勧めします。そして、究極をいうと心こそ全てで、言葉というものは不必要なのだけれども。矛盾するようですが意味は何となく分かると思います。
ちなみに、最初に私の意味した鳥は「チョコボ」でした。そんなこと分かっていたという人はレベルが高すぎるか頭がおかしいかのどちらかでしょう。文字から連想されるシニフィエやクオリアというのは共通の経験などにより限りなく近づけることも可能だと私は思います。あなたがどこかで「鳥」という文字を見るだけで、チョコボをイメージするようになるかもしれません。
話が大幅にそれたので「自由」の辞書的な意味について。
自由(じゆう、英: freedom, liberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。ここでもfreedomとlibertyという2つのシニフィエがあるわけだ。
他の意味としては、心のままであること、あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。哲学上は、人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく、それ以外の対象をも選びうる能力をいう。
一つ目の意味では自己自身という「自分とは何か」ということも知らなければならない。一つ前の記事で「自分」というものは存在しないと書いた。しかし、究極は存在しないけれども、存在もするわけです。 自分は存在するとした場合には、自分とは何なのか。名前というものはただの記号にすぎません。記憶というものも、科学技術が進み記憶のデータ化や電脳化が可能になった場合には意味を持たないでしょう。自分と同じ名前や見た目、記憶などを持つ存在がいた時に「自分」を自分たらしめるアイデンティティーというのは何なのでしょうか。これについては長くなりそうなので他の機会に書きたいと思う。二つ目の意味のほうがどちらかというと重要である。共通していえることは「支配」からの脱却と「あるがままに」ということである。そして「選択性」というのも重要である。
法律的な観点から自由というものを見た場合「人権」というものが挙げられる。これは人間が人間であるための権利であるが、本当の意味での「人間」の数は少ないと思う。獣を蔑視するわけではないが、獣性というか「本当に人間か」と疑うような心無きものが多いと感じる。動物でさえ心はある。人権というのは人間の精神的進化の歴史とも、ある意味ではいえるわけである。人権の中には自由権というものがある。自由権は精神、身体、経済活動の自由と3つに大別される。この中の「精神の自由」の中の「表現の自由」の中の「知る権利」というものに着目していきたい。どの権利ももちろん重要だが、知る権利というのはこれからもっと重視されるべきだと思う。知る権利というのは、国に情報の提供を求める権利(積極的自由)と国家の妨害を受けずに自由に情報を受取る権利(消極的自由)との二つがある。これはさっさと憲法に明記させたほうが良い。人間は知ることによって考えることができるわけだ。しかし国家の妨害などにより情報が秘匿された場合には、何も知らないので考えようもないわけである。自民党の新憲法草案では明記されていないわけだが、自民党が悪いということでもない。全体の意識のレベルというものがついてこれていないからこういう結果になるわけである。 今、私は支配されていないし自由だと考えている人はとても幸せかもしれません。しかし残念ながらそうではないし、あなたの感じる自由や幸福というものは偽りであるかもしれない。陰謀論というものもこれに似ている。空想だ、嘘だという人もいるだろうが、すべてが明らかになるまではどちらも想像の域を出ないわけで、真であるとも偽であるとも言えないわけである。まあ考える力がないからこそ嘘だとも言い切れるのかもしれない。
自由意志について考えると長くなるので、書かないでおくが「マインドタイム」というものについて調べるのもオススメする。
ここからは創作話を一つ。なんとなくイメージしつつ考えてみてほしい。
あなたは、大きな屋敷の中の大きな檻の中で飼われている「動物」としよう。
あなたはそのカギがついた檻から、生まれてから一度も出たことはない。
しかし、不思議なことに不自由というものを感じたことはない。なぜなら檻はとても広く、快適だからである。老齢の飼い主からきちんと毎日運ばれてくる食べ物は豪勢でありとてもおいしい。もしかすると、檻から出られるということをあなた自身知らないからこそ不自由を感じなかったのかもしれない。
そして、この檻の中で望むものはなんでも手に入る。おもちゃやお菓子などを欲望のままに手に入れるのもいいでしょう。番いがほしければ、それも手に入れることができます。もちろんその番いと子供を作ることもできるでしょう。
この檻の中では「生きる」ということにはまったく困らないわけである。
そしてある時、食べ物を持ってきた老齢の飼い主は檻のカギと扉を閉め忘れたわけである。
あなたの目の前には、カギの空いた扉があるわけだ。
あなたは檻の外に出てみるだろうか。
出ないとした場合にはあなたの物語はそこで終わりである。幸せに、死ぬまで檻の中で暮らしましたとさ。
出るとした場合にはもう少し続く。
檻から出たあなたは「自由」というものを感じるかもしれない。
初めて歩く屋敷の中は「未知」であるが故に「恐怖」や「戸惑い」というものを感じるかもしれない。
しかし、存外楽しいものでもある。なぜなら檻から出たあなたは「好奇心」を持っているからである。
屋敷をさまよううちに、屋敷の外に出る扉をあなたは見つける。「庭」に出る扉である。
庭に出てみるか、屋敷に留まるか、檻に戻るかということもあなたの自由である。
庭に出てみると、初めて直接あたる太陽の光や、風というものがとても心地良い。
広大な庭を散策するうちに、塀にたどり着く。どうやらこの庭は塀に囲まれているようである。
塀を辿っていくうちに門にたどり着く。
すると、遠くの後ろのほうから飼い主の呼ぶ声が聞こえるわけだ。「帰っておいで」と。私がどこにいるのかはまだ分かっていないようだ。
あなたは門から出ることもできるし、飼い主のもとに帰ることもできる。
それも、あなたの選択次第である。
飼い主のもとに帰ることを選択した場合には、温かく迎えられるかもしれないし、逃げたことに対する何かしらの罰を受けるかもしれない。それは帰ってみないとわからない。
門の外に出たあなたは「自由」や「世界」というものについてなんとなく理解できてきた気がする。それと同時に、知るということはとても素晴らしいことだと気付いたわけです。
そしてもう一つ気付いたことがありました。あなたは「鳥」だったのです!!チョコボでない限りは飛ぶこともできるかもしれません。
旅に出るのもいいでしょう。思うがままに、あるがままに。
そしてある時、あなたは屋敷に戻ってみようと思うわけです。
この時には、あなたは「空飛ぶ鳥」になっていました。
遠くの土地から屋敷まで飛んでいくわけです。
屋敷につき檻のある部屋の窓を外からのぞいてみると、飼われていたのはどうやらあなただけではなかったようです。
そしてあなたは飼われるものに、問うわけです。
「自由が何か知っているか。」と
あるものは檻の中から俺が自由だといい、あるものは聞く耳を持たなかったり、あるものは自由という概念さえ持ち合わせていません。
飼われるものを見て、不憫に思ったあなたは「その檻の中では、望むものは何でも手に入る。檻のカギさえも。」と一言残し、仲間のもとに飛び去るわけです。
終わり。
日本でなぜ自由を実感できないのか。http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/07/post-3803_1.php
答えは、自由ではないからである。ないものを実感することはできない。この記事だと、アメリカは自由の国だみたいに、上げてるけど実際大したことない。アメリカは嫌いじゃないけど上げられてばっかりだと日本人は奴隷精神が染み付いてるから卑下するからアメリカ下げしとく。まあ、本当に大して自由じゃないんだけど。てかこの記事書いたやつ誰だよと思ってググったら変なの出てきて笑えた。
宇宙、異次元など世界はとてつもなく広い。今まで見たことがない世界というものを見ることは、何とも不思議で新鮮なものである。
知ることこそが自由に繋がる道である。自由とは知ることであるとも言えるかもしれない。知らない方が良かったということもあるという人がいるかもしれないが、それは単なるエゴであってそんなものは存在しない。あなたが受け入れられるかどうかの問題であって、自由とは関係ない。知る、知らないに関係なくそれは初めから存在する事実であり真実なのだから。知らない自由というものを主張するのなら、それは被支配を意味し、決して自由ではない。
イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの言葉に
「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうが良い。同じく満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはそのものが自分の主張しかできないからである。」
という言葉がある。
これは精神的な快楽の質を重視するとともに、腹を満たすことなどの低俗な快楽で満足するのではなく、精神的な充実を求めるのこと方が重要ということである。そして、豚は豚だから豚語しか話せないという意味である。人間の言葉を喋れ豚野郎!と言う感じ。
ミルは東インド会社に入っていたからフリーメーソンとも何か関係があるかも。
私的にはこの画像がしっくりくる。真理に勝るものはない。
人間の数は増えてきているが、残念なことにこの世は豚と羊達で溢れている。だいたい豚とか羊はこんなブログは読まない。羊というのは豚に飼われている盲目の羊である。盲目の羊というのは、自分が気付いていないだけで実際は人間なわけである。目覚めれば良いだけなのだが、豚に飼われることが心地良いのか、目覚めようとしない羊も多い。それは自発的に気付くまでは誰にもどうにもできない。死んだ後に気付くのか、死ぬ間際に自分の人生が何だったのかを振り返るときに初めて考えるのかもしれない。
最近のニュースなどについて。
丸山議員の言葉狩りは少々気の毒でもあるし、そうでないとも言える。正直、とてもくだらない。オバマが奴隷の血を引くかどうかは知らないが、アメリカの歴史上黒人が奴隷として扱われていたことは事実であるし、黒人が初めて大統領になったことも事実である。アメリカがダイナミックな改革な変革をする国であるというのも事実である。オバマが奴隷とかどうでもいいから、日本はさっさとアメリカの奴隷やめろよと思う。
大麻合法化についての論争も最近よく見る。これは私の意見だけど合法化しないという選択肢は国際的な観点から見ても100パーセントない。これは医療の面で見ても早いか遅いかくらいの差であることは周知の事実である。やるならさっさと合法化した方が良い。
なぜかというと、搾取される立場というものから抜け出せないからである。合法化されるのが遅かった場合について考えてみる。まず、医療の面では当然搾取される。なぜかというと海外で大麻が合法化されてくると、大麻で治るような薬の生産量というのもは世界的に減るわけである。輸入物の薬というものは、大量生産するが故にコストは安くなっていたので、必然的に値段も上がるでしょう。薬というものについても考え物である。日本では平然と使われているような薬でも、海外では体に悪影響だとして使用が禁止されているものもある。特に糖尿病の薬は。私の親戚がフランスの保険会社で働いているので詳しいみたい。何らかの薬を服用している人は、その副作用についても一度調べたほうがいいかもしれない。
大麻というものが認められてきたとして日本で栽培すること抜きでどこから手に入れるかというと、アメリカなどからの輸入になるだろう。質の良いものはもちろんアメリカ国内で流通する。そして、日本にはゴミみたいな質の悪い大麻が高値で輸入されると。そんなものを病気が治るからといってありがたがって吸うなんてほんと日本人素晴らしいよ。他にも合法化が遅れることのデメリットというのは考えられるけど、主に「金」に関するものである。まあみんなが搾取される国ジャポンのままでいいならそれも素敵だけど。大麻大国の見る影もないよ(笑)
合法化反対派の意見を見ると、今まで大麻なしでやってきたんだから合法化しなくて良いじゃんというのをよく見る。この世界に日本という国しか存在しないのならそれも良いのかもしれない。
大麻吸うと頭がおかしくなって犯罪を起こすと思ってる人もいるけど全くの逆。そんな気は起こらないし、そんなやつどこの国でも見たことない。みんなニコニコしてのんびりするだけ。まあ酒でもなんでも犯罪起こすやつは起こすし、起こさないやつは起こさない。これはゲームとかバイクにも言えることだけど、変なイメージがついているわけだ。犯罪を起こしやすかったり暴力的だみたいな。警察官でも政治家でも弁護士でも犯罪を起こすやつは起こすし、起こさないやつは起こさない。人は見た目や職業、趣味嗜好などで判断してはいけない。全ては「心」の問題である。
そして、大麻はお酒より依存性もないし、そんなに悪いものじゃないよと主張する人がいると、その人に「なに?大麻って普通は未知なもののはずなのに吸ったことあんの?やばくない?」みたいな頭の悪い人もよく見かける。普通とは何なのだろうか。お前の方がやばい。
自分の経験したことが全てだと思っているし、住む世界がとても小さいのだろうと思うと可哀想になる。ちなみに、日本でも大麻に関しては喫煙することは犯罪でもなんでもない。所持はもちろん違法だけど。
この辺も少し日本の法律は狂ってるなと思う。まあ、もしかすると大麻取締法が制定される中で誰かが日本が危機的状況になることに気付き、抜け道をあえて残したのかもしれないけど(笑)
日本ではオリンピックも開催されるし、それまでにある程度合法化の動きが見られるなら日本の夜明けも近い。日本人こそ至高の民族なんだからさっさとそのことに気付いた方が良い。
日本とアメリカと戦争と大麻もよろしくぅううううう!!
http://plus-ultra.hatenablog.com/entry/2016/01/09/151158
神と宗教について書こうと思ってたけど次書こうかな。
読んでくれて、ありがとうございました。
重力波と浦島太郎とタイムトラベル
他の記事を踏まえて、適当に自分の思ったことを書いていく。
レオナルド・ダ・ヴィンチと自由
「脳と意識と目覚めと進化と宇宙人」
http://plus-ultra.hatenablog.com/entry/2016/01/17/080907
ワンピースと五老星と陰謀論とDの王国
「ワンピースは現実の物語である。」
本当はもっと長い文ですけど、短く要約してあってわかりやすいのでそれを引用しました。引用元http://s.ameblo.jp/hiromi1810/entry-11292555418.html
つまり「核ミサイル」の隠喩であるということです。
それは何かというと「宇宙人の存在の公表」である。
CIAが公開したUFOについてのXファイルについて。
http://gigazine.net/news/20160126-cia-x-files/
「支配」というものに「対抗」する存在である。
Dの王国とは「日本」である。
ラフテルとワンピース最終話考察と「D」と陰謀論
私がこのブログで書いている事を踏まえた上で、ワンピースを色々予想したいと思う。合ってるか、合ってないかというのは私にとって問題ではない。むしろ、合ってる方が問題である。なぜなら私は預言者でもないし、尾田栄一郎でもないから(笑)
ワンピースは「現実」の物語である。
ワンピースっていうのは世界を一つにするという意味だ。そして世界というのは、何もマンガの中の話だけではないと私は考える。
「ラフテルとは地球のことだ。」と
「R A fl T E L」
「E A R T fl」+ L
「R A fl T E L」
なんとなくそれっぽい。実際に書くとさらにそれっぽいし、筆記体でもそう見えなくもない。
「ラフテル、 Earth 」で検索してみると一番上に「熊本」の美容室が二つ出て来ました。別々の美容室だが、ここでもうそうなのかなと。「光の森」や「夢タウン」という私の書きたいことにぴったりのワードもありました。
なんで検索して出てきただけのものが関係あると思うのかというと、尾田さんは熊本出身です。そして、高校生時代にアルバイトをしていた「薔薇亭」という場所も、バラティエとして漫画の中に出してきているわけです。そこでもパティは「愛」について語るわけです。またそんな感じなのではないかなと。
次に、さらにワンピースを現実の話だと人々に認識させるにはどうしたらいいか。融合させていくしかないと。ワンピースを読んでいる人なら誰でも知っていると思いますが、「現実」の要素を取り込んでいます。キャラクターも現実にいる人をモデルにしていたり、神話や童話などをストーリーに組み込んだりというのも見られます。
ワンピースの、現実にある風景や建物http://onepiece.ria10.com/Entry/2954/
そして、最終的には次元そのものを融合させるのではないかと予想します。
しかし、ワンピース(夢=現実)というものは終わらない。
まあ正直、ここまで書いた話は終わってみないとわからないのでどうでもいい。重要なのは「ワンピースは現実の物語」であるという一点だけだ。
「ROMANCE DAWN for the new dimension -新しい次元への冒険の夜明け-」である。
ワンピース(2次元)の「D」については「考古学から考察するワンピース 謎と伏線」というサイトで書かれていたものが素晴らしいので、リンクを貼っておく。
http://100onepiece.blog.fc2.com/blog-entry-161.html
そして私なりに考えられる、「D」という概念に含まれるであろうと思う意味について。
「Dawn(夜明け)」
「Dream(夢)」
「Dimention(次元)」
「Decode(解読)」
「Death(死)」
「Destiny(運命)」
「Dope(麻薬)」
「Draconian(神の天敵)」
だいたいは理解できると思うけど、理解できなさそうなものについて説明します。
まず「Death(死)」というものについて。まあ、これは超簡単に言うと「魂」というものは存在するということです。宇宙の流れについて書いた時に輪廻転生と書きましたけど、流れているものは自分という魂です。そしてこの川は「愛」でもある。「Death(死)」というものをうまく説明していく役目がブルックなのですが、今の所深い説明はできていないですね。まあ、最近では幽体離脱の描写などもありますから少しはわかると思います。ブルックは一度死んでいますしね(笑)他の人の考察の、ロジャーの魂がブルックに乗り移って「真実」を語る説はあり得ると思います。
次に「Dope(麻薬)」について。これを日本人に説明するのは、不可能に近いと思う。私が書いても理解できる人はかなり少ないと思う。なぜなら日本と言うのは、ドレスローザ状態だからである。日本人というのは洗脳されている。
しかし、日本は「ワノ国」でもあるので理解できると思って書く。
「Dope(麻薬)」を説明する役目を担っているキャラクターはチョッパーである。ワンピースの中には「薬」というものが色々出てきていることに気付いた人もいるだろう。「CANDY」や「E・S」など。しかし、ドラッグや麻薬などは全てが悪いわけではない。ここが日本人には理解できないところだと思う。「ダメ。ゼッタイ。」それが「常識」だと、さんざん教えられてきましたから。もちろん覚せい剤はダメ。ゼッタイ。